張本勲さんは、両親と2人の姉、1人の兄がいる6人家族の末っ子として生まれ、結婚後は妻と2人の子供に恵まれました。働き通した母・朴順分さん、父代わりの兄・世烈さん、被爆の記憶を語った姉・小林愛子さんたちは、3085安打を支えた大切な存在です。強気な印象の張本さんですが、家族の話には温かい横顔もあり、妻子の公表状況や2026年9月の訃報までたどると、大記録だけでは見えない意外な素顔が浮かんできますよ。
この記事でわかること- 出生時は6人家族だがその後に母子4人で暮らした経緯- 妻と2人の子供について本人が明かした範囲- 兄姉と母の支えが3085安打の原点になった物語
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | 張本勲さん |
| 読み方 | はりもと いさお |
| 韓国名 | 張勲(チャン・フン) |
| 生年月日 | 1940年6月19日 |
| 死去 | 2026年9月9日(86歳) |
| 出身地 | 広島県広島市 |
| 投打 | 左投左打 |
| 主な記録 | 通算3085安打、504本塁打、打率3割1分9厘 |
| 主な表彰 | 新人王、MVP1回、首位打者7回、ベストナイン16回 |
| 野球殿堂 | 1990年競技者表彰 |
プロフィールの出典:日本プロ野球名球会、日本野球機構、TBS NEWS DIG

張本勲の家族構成は出生時6人と妻子
まず家族の人数から見ると、張本勲さんは両親・姉2人・兄1人の6人家族に生まれた末っ子です。父と長姉を早くに亡くし、戦後は母と子供3人の4人暮らしになりました。資料によって「6人」と「4人」が出てくるのは、数えている時期が違うからなんですね。
- 出生時は父母と4人きょうだいの6人
- 戦後は母・兄・姉・張本さんの4人
- 成人後は妻と結婚し子供が2人
顔画像付き家族構成図

図で見ると、張本さんの家族は「生まれ育った家族」と「結婚後の家族」に分けるとわかりやすいでしょう。母と兄姉の氏名は本人の証言や報道で確かめられます。一方、妻子は一般人で、実名や顔写真は公にされていません。
| 家族 | 氏名 | 張本さんとの関係 | 公表された主な事実 |
|---|---|---|---|
| 父 | 張尊禎さん | 父親 | 朝鮮半島に戻った後に病没 |
| 母 | 朴順分さん | 母親 | 戦後に3人の子供を育てた |
| 長姉 | 点子さん | 一番上の姉 | 原爆のやけどで数日後に死去 |
| 兄 | 世烈さん | 8歳上の兄 | 父親代わりとなり1996年に64歳で死去 |
| 次姉 | 小林愛子さん | 2歳上の姉 | 被爆体験を語り核兵器廃絶を訴えた |
| 本人 | 張本勲さん | 末っ子 | 通算3085安打のプロ野球記録を樹立 |
| 妻 | 非公表 | 配偶者 | 本人の著書に結婚後の逸話あり |
| 子供 | 非公表 | 2人 | 少なくとも1人は娘と本人が言及 |
| 孫 | 非公表 | 不明 | 人数や氏名の確かな公表はなし |
張本さんの家族写真は報道機関によって紹介されています。しかし、その写真には転載を禁じる表示があるため、当サイトでは再掲せず図解にしました。毎日新聞の家族記事では、本人提供の家族写真を出典元でそっと確かめられます。
画像に映る母や兄姉は家族史を伝える大切な存在ですが、報道写真は自由素材ではありません。元の記事へ案内することで、撮影者や家族の権利を守りながら読者も写真を確かめられる。図に本人以外の顔を入れていないのも、そんな配慮からなんですね。
戦前の6人と戦後の4人は、別の家族ではありません。父の病没と長姉の被爆死によって、同じ家族の人数が変わっただけです。時系列をはっきりさせると、「5人家族」とする一部の紹介が生まれた当時の状況と合わないことも見えてきますね。
図の上段は出生家族、中央は本人、下段は結婚後の家族です。上下を分けたことで、兄姉と子供が同世代のように見える混乱を避けました。孫の欄は存在を示すものではなく、公表情報がないことをひと目でわかるようにしたものなんですね。
父親の張尊禎は故郷で病没
父親は張尊禎(チャン・サンジュン)さんです。張本さんの両親は1939年ごろ、朝鮮半島から日本に渡ったと報じられています。その後、父は財産の整理のため故郷へ戻り、病気で亡くなったといいます。
病名や亡くなった年は、信頼できる公開資料で確認できません。つまり、張本さんは幼くして父と別れ、実質的には母と兄姉に囲まれて育ったのです。出生時の「6人家族」と後年に回想される「母子家庭」は、どちらも間違いではないんです。
父の写真や仕事、故郷の詳細は公開されていません。家族史を補うために憶測で埋めるのではなく、本人と姉の証言にとどめるのが自然でしょう。父を失った穴を埋めたのが、母と兄・世烈さんでした。
両親が日本へ渡ったのは、張本さんが生まれる前のこと。父の死によって、家計と子育ての負担は母に集中しました。そこに戦争と原爆が重なったと考えると、母子の暮らしがいかに厳しかったのか、胸が痛みますね。
父と過ごした時間は短く、本人の回想にも母や兄ほど多く登場しません。それは愛情の差ではなく、共に過ごせた年月の差でしょう。名前と最期だけでも系図に残すことが、家族の原点を見失わないための大切な手がかりになっていますね。
母親の朴順分が守った3人の子供
母親は朴順分(パク・スンブン)さん。1945年8月6日、5歳の張本さんと7歳の愛子さんは広島市内の自宅にいました。原爆が投下された瞬間、母は二人を守るように覆いかぶさったといいます。
母自身も背中にガラス片が刺さるけがを負いました。それでも家族を生かすことを優先した強さは、張本さんの回想の中でひときわ大きな存在感を放っています。その後はホルモン焼きの屋台や闇市で働き、生き残った3人の子供を育て上げた母でした。
張本さんと愛子さんは、母が寝ている姿を見た記憶がないと語っています。それほど働き通しだということ。母は民族の誇りも子供たちに伝え、張本さんの生き方に深い影響を与えたようです。
屋台の仕事は、母が家計を支えるための現実的な手段でした。幼い子供たちにとって、母の働く姿は家庭そのものだったのかもしれません。後年の張本さんが練習量を重んじた背景に、休まず手を動かす母の背中が、どこか重なって見えますよね。
母は厳しさと深い愛情を同時に持つ人だったようです。張本さんが大阪で野球を続ける決断には、母と兄が生活を引き受ける覚悟が必要でした。野球の才能を信じるだけでなく、家族全体で未来をかけた進学だったのでしょうね。
戦後の家族にとって、学校を続けることは当たり前ではありませんでした。一人が夢を追えば、残る家族の仕事と負担が増える時代です。母が弟の進路を認め、兄がお金を送った連携は、まさに家族みんなで弟の夢を後押しした決断だったのでしょう。
朴順分さんは1985年6月、83歳で亡くなりました。1980年5月28日の通算3000安打達成を球場で見届けられたことは、家族にとって大きな喜びだったはず。
暮らしに余裕のない家庭から生まれた大記録は、母の苦労に報いる答えだったのかもしれません。そんな母と兄姉の証言は毎日新聞の特集に残されています。
長姉の点子と姉の小林愛子
一番上の姉は点子(てんこ)さんです。原爆投下時、点子さんは勤労動員として市内に出ており、大やけどを負いました。帰宅できたものの、数日後に息を引き取ったと伝えられています。
母は悲しみから、点子さんの写真や遺品を焼いてしまったといいます。後に同級生から写真が届き、家族はようやく長姉の面影と再会できました。記録が失われそうになった事実自体からも、家族の傷の深さが伝わってきますね。
2歳上の姉は小林愛子さん。自らの被爆体験を語り、核兵器廃絶の署名活動を続けました。2019年12月までに集めた署名は3130筆となり、弟の通算安打3085本を上回ったというから驚きますよね。
張本さんは姉に「お姉、大あっぱれじゃ」と声をかけました。球場の安打数と平和への署名数が並ぶと、姉弟それぞれの歩みが一本の線でつながります。数字の向こうに、二人だけが分かち合える記憶があったのではないでしょうか。
愛子さんは、張本さんと同じ家で被爆した家族の証人でもあります。まだ幼い愛子さんが弟の手を引いて避難した体験は、二人の絆を象徴する出来事。弟が野球を通じて、姉が証言活動を通じて、それぞれの方法で同じ記憶を伝えてきたんですね。
一部の紹介には、世烈さん以外の男性きょうだいを載せる例もあります。しかし、毎日新聞が家族の証言を基に示したのは、点子さん・世烈さん・愛子さん・勲さんの4きょうだいです。確かな根拠のない別名は、家系図に加えないほうがよさそうですね。
兄の世烈は父親代わり
兄の世烈(セヨル)さんは、張本さんの8歳上。父親を失った家庭で、父親代わりの役目を担いました。張本さんが大阪の浪華商業高校へ進んだときも、兄の支えがその生活を成り立たせています。
世烈さんはタクシー運転手として働きました。当時の月給2万3000円のうち、1万円を弟の学費や生活費に送ったといいます。ほぼ半分の給料を弟の未来に託したことになる、お兄さんの覚悟がずしりと伝わる話ですよね。
張本さんは1958年に東映フライヤーズと契約し、200万円の契約金を得ました。その半分の100万円で、母に広島の家を建てたと語っています。自分の成功を最初に家族の屋根へ変えたわけで、張本さんらしい恩返しですね。
世烈さんは1996年、64歳で亡くなりました。仕事と弟への仕送りを両立させた兄の存在は、張本さんのもう一人の父といってもよいほど。張本さん自身も、日本記者クラブの会見で兄の援助を語っています。
月給と仕送り額が具体的に残っているのは、兄の支えが抽象的な美談ではなかったから。世烈さん自身の生活もある中で、給料の4割以上を送るのは大きな負担でした。弟の才能を信じ、家族の未来を野球に託したお兄さんの姿に、なんとも胸が熱くなりますよね。
母に贈った家は、張本さんにとって初めての大きな成果でした。ただし、公開されているのは広島に建てたという逸話までで、住所やその後の所有関係は不明。家を特定することより、母に安心できる場所を贈った意味を受け取りたい。
妻は一般人で3000安打の喜びを演出
張本さんはプロ入り後に結婚しました。妻の氏名、年齢、出身地、職業は公にされていません。張本さんが家庭の私生活をほとんど語らなかったことから、妻は表舞台から一歩離れ、家庭で夫を支えていたのでしょうね。
著書『張本勲 もう一つの人生 被爆者として、人として』には、現役時代の家族との関係が綴られています。シーズン中は集中のために寝室を分け、枕元にバットを置いて球を振る感覚を確かめたといいます。家族にとっては、球場と家庭の境目まで野球に満ちた日々だったのでしょう。
1980年5月28日、張本さんは川崎球場でプロ野球史上初の通算3000安打を達成しました。著書によると、妻は張本さんに内緒で母を球場へ招いていたそうですよ。
張本さんは表では不満そうに振る舞いながら、内心では妻に感謝したと振り返っています。家族らしい、ちょっと不器用で温かい逸話なんですね。
妻が既に亡くなったとする記述も一部にあります。しかし、本人の公式発言や主要報道で裏付けを取れないため、現時点では、生死を含めて近況は不明と受け止めるのがよさそうです。著書の書誌情報は新日本出版社で確認できる。
シーズン中の張本さんは、家に帰っても打席の感覚を手放さなかったといいます。妻には、生活の音や就寝時間まで夫のコンディションに合わせる日常があったはず。本人が自らを良い夫や父ではなかったと振り返ったのは、それだけ、妻と子供の支えを強く感じていたのかもしれません。
3000本目の日、妻は夫の意向よりも、母に歴史的瞬間を見てもらうことを選びました。母と息子の関係を理解していたからこそできた気遣いでしょう。氏名や経歴がわからなくても、その一日を知るだけでも、妻の家族への温かいまなざしが伝わってきますよね。
夫が家庭のことを語らない選択をし、妻も表に出なかったため、二人の出会いや結婚年は不明です。結婚式の場所や妻の実家も、本人が明らかにした資料は見つかっていません。情報の少なさこそ、張本さんが家族の暮らしを大切に守ってきた証なのかもしれませんね。
子供は2人で孫の公表情報はなし
張本さんには子供が2人います。本人は2014年のテレビ番組で「下の娘」に言及し、子供が野球にあまり関心を示さないことを笑い話にしていました。強い言い回しもあったようですが、番組上のユーモアと受け取るのが自然でしょう。
子供2人を「娘2人」とする紹介もあります。ただし、「下の娘」という言葉だけでは、上の子の性別まで断定できません。確実にいえるのは、子供は2人で、少なくとも年下の子は娘だという範囲なんですね。
子供の氏名、生年月日、学校、職業、結婚歴は非公表。顔写真も公に活動する本人のものと確認できないため、掲載しません。孫の有無や人数についても、信頼できる公表資料ではまだわかっていないんですね。
| 話題 | 確認できること | 公表されていないこと |
|---|---|---|
| 妻 | プロ入り後に結婚 | 氏名、年齢、職業、顔写真、現在の生死 |
| 子供 | 2人いる | 氏名、年齢、職業、上の子の性別 |
| 娘 | 本人が「下の娘」に言及 | 実名、顔写真、家庭の詳細 |
| 孫 | 確かな公表なし | 有無、人数、氏名、性別 |
| 自宅 | 契約金で母に広島の家を建てた | その所在地、本人の生前の居住地 |
家族構成の記事であっても、一般人の生活を不必要に探ることはしません。張本さんが守ってきた静かな家庭には、その静けさも含めて、張本家らしい家族の形なのかもしれませんね。
張本さんの子供が野球界で公に活動したという確かな記録はありません。親の知名度と子供の職業は別の問題であり、同姓の人物を結びつけることもできない。「有名選手の子供なら」と無理に後継者を探さないことも、大切にしたいですね。
孫についても同じで、年齢から存在を推し量ることはできません。子供が結婚しているか、張本さんが祖父として過ごしたかは、今も家族だけの私的な領域です。「公表がない」と「いない」は同じ意味ではないと覚えておきたい。
父の大記録に子供が強い関心を示さなかったとしても、親子関係の良し悪しとは直結しません。有名な父とは違う分野を選ぶことも、子供の自然な生き方です。番組の一言だけで、断絶や不和まで想像する必要はなさそうです。
家族の支えが3085安打と平和への言葉を育てた
張本勲さんの通算3085安打は、才能と練習だけで完結した記録ではありません。働き通した母、学費を送った兄、大記録の日に母を招いた妻。家族の行動が節目ごとに重なり、記録の背景を立体的に見せてくれます。
- 右手の大けがと被爆を家族と生き抜いた
- 兄の仕送りで大阪の高校に通えた
- プロ入り後は契約金で母に家を贈った
- 姉とともに被爆の記憶を次世代へ伝えた
右手の大けがと被爆を越えた少年時代
張本さんは4歳のころ、たき火の中に転落して右手に大やけどを負いました。親指と人差し指はくっつき、薬指と小指は十分に動かなくなったと本人は語っています。左投げ左打のスタイルは、このけがと無関係ではないでしょうね。
その翌年には広島で被爆。自宅で母と姉・愛子さんと共に生き残りましたが、長姉の点子さんを失いました。張本さんの少年時代は、身体の痛みと家族を失う悲しみが連続した日々だったのです。
それでも野球に出会い、バットを振り込みました。右手の状態を他人に見せないようにしながら、弱点を技術と練習で補ったといいます。後年の力強い言動の奥には、家族と命をつないだ少年の緊張感が残っていたのかもしれません。
右手のけがは、張本さんの守備や打撃を語る際にしばしば取り上げられます。ただし、けがを理由に全てを説明するのは、本人が積み重ねた技術を小さくしてしまうでしょう。右手を隠しつつプロで戦い抜いた時間にこそ、大打者・張本勲さんのすごさがあるのではないでしょうか。
家族への恩返しが3085安打に重なる
張本さんは1959年に東映フライヤーズでプロデビューし、その年の新人王を獲得しました。東映・日拓・日本ハム、巨人、ロッテで計23シーズンを過ごし、2752試合に出場。安打3085本は、現在も日本プロ野球の単独最多記録で、改めて見てもすごい数字ですよね。
| 年 | 家族と野球の出来事 |
|---|---|
| 1940年 | 広島市で出生 |
| 1944年ごろ | 右手に大やけどを負う |
| 1945年 | 広島で被爆し長姉・点子さんを失う |
| 1958年 | 東映と契約し契約金で母の家を建てる |
| 1959年 | プロ1年目で新人王 |
| 1972年 | 通算2000安打を達成 |
| 1980年 | 妻が母を球場に招いた日に通算3000安打 |
| 1981年 | 3085安打で現役引退 |
| 1985年 | 母・朴順分さんが83歳で死去 |
| 1990年 | 野球殿堂入り |
| 1996年 | 兄・世烈さんが64歳で死去 |
| 2019年 | 姉・愛子さんの核廃絶署名が3130筆に到達 |
| 2026年 | 9月9日に86歳で死去 |
首位打者7回、通算504本塁打、1676打点、319盗塁、生涯打率3割1分9厘。数字を並べるだけでも圧巻です。しかし、その一打一打の手前には、兄からの仕送りや母の屋台での労働があったんですね。
張本さんが契約金を家に変えたことも、球場で母に記録を見てもらったことも、恩返しの形だったのでしょう。大打者の物語を家族の側から見ると、3085という数字の温度まで変わって見えますね。
現役生活は、東映から日拓、日本ハムへと球団名が変わる時代を跨ぎました。1976年から巨人、1980年からロッテでプレーし、40歳を越えても安打を重ねたのです。家族が23年間の競技生活を日常面から支えたことも、長い現役生活を支える大きな土台だったのでしょうね。
通算3085安打は、日米通算ではなく日本プロ野球だけで積み上げた数字です。そのため、単独の日本プロ野球通算安打で首位という位置づけは変わりません。毎年重ねた安打の数が、母の働きと兄の仕送りから家族がつないだ歳月のようにも見えてきますね。
1962年にはリーグMVPに輝き、ベストナインは16回。打つ技術を長年保ち続けたことに加え、通算319盗塁は走者としても優れていた証です。「安打製造機」の印象だけでは収まらない、走攻ともに総合力の高い選手だったんですね。
韓国名と国籍の歩み
張本さんは在日コリアン2世として広島で生まれました。韓国名は張勲(チャン・フン)。プロ入りの際、当時の外国籍選手枠との関係から帰化を勧められたものの、母は「祖国を捨てるべきではない」と、きっぱり反対したそうですね。
結果として球団はリーグと交渉し、張本さんは外国籍選手枠の制約を外れて出場できるようになったと報じられています。母の一言が、張本さん個人だけでなく、後に続く選手の道を広げる一歩になったとも考えられています。当時の経緯はweb Sportivaに詳しく残っていますよ。
一方、2024年12月29日に公開されたインタビューで、張本さんは数年前に日本国籍を取得したと明かしました。つまり、現役時代の韓国籍と、生涯の最後に明かされた日本国籍は時期が異なります。国籍変更の発言は毎日経済の報道で確認できますね。
国籍の変遷は、張本さんが母から受け継いだ誇りを否定するものではないでしょう。日本で生まれ、韓国のルーツを大切にし、両国に向けて発言し続けた。ひとつの言葉に収めきれない生き方こそ、家族史から見える張本勲さんの素顔です。
現役時代の国籍を「日本」と一括りにすると、母の反対と球団の交渉という重要な経緯が消えてしまいます。反対に、生涯を通じて韓国籍だったとするのも最後の本人発言と合いません。時期とあわせて見ると、現役時代の韓国籍と後年の日本国籍というふたつの説明が、はじめて両立するんですね。
母が守ろうとしたのは、書類の国籍だけではなく、家族の出自と自尊心だったと思われます。張本さんが年齢を重ねて別の選択をしたことも、長い人生の中での決断として受け止めたいところ。国籍を変えた後も、母から受け継いだルーツへの思いは消えなかったのでしょうね。
韓国名と日本で用いた名前の両方を公にしてきた姿勢には、自分の歴史を隠さない強さがあります。家庭内でどの言語を使っていたかなどは公表されていません。言語や生活習慣まで想像で補わないことが、ルーツを尊重するうえで、大切にしたいポイントですね。
2026年9月9日に86歳で死去
TBS NEWS DIGは2026年9月10日朝、張本勲さんが前日9日の午後5時ごろ、東京都内の病院で亡くなったと報じました。86歳でした。通算3085安打の大打者であり、長年『サンデーモーニング』で解説を続けた人物の訃報に、多くの野球ファンが大きな衝撃を受けました。
初報には、亡くなった病院と時刻は記されているものの、死因や具体的な病名は記されていません。したがって、一部で語られる病気説と結びつけることはできません。家族や関係者が公にしていない医療情報は、憶測せず静かに見守るべきでしょう。
通夜、葬儀、喪主、遺族のコメントについても、初報の範囲では詳細が明らかにされていません。妻や子供の氏名を訃報から探ろうとせず、公表された範囲で張本さんの歩みを振り返りたいものです。最新の初報はTBS NEWS DIGで確認できますよ。
訃報が出たのは亡くなった翌日であり、記事執筆時点でも情報が動いている段階です。そのような時に死因や葬儀の形を先回りして書くと、家族の意向と異なる情報を広げてしまうおそれがあります。新しい公式発表があったときに、正確な内容だけを追記したいところです。
張本さんは、野球人としてだけでなく被爆者としても言葉を残しました。長姉を失った家族の記憶は、姉・愛子さんの証言活動と呼応して次世代へつながっています。野球の「記録」と、家族が語り継いだ「記憶」の両方を残した生涯でした。
解説者としての発言は賛否を集めましたが、選手時代の記録と家族が生き抜いた歴史は別に確かめる必要があります。ひとつのイメージだけで人生全体を評価すると、母や兄姉の物語まで隠れてしまう。訃報を機に改めて触れたいのは、そんな一言では語りきれない生涯です。
テレビで見せた厳しい表情と、著書で語られた家族への感謝には、たしかに温度差があります。だからこそ、両方を並べると不器用さまで含めた人柄が見えてくる。言葉にしにくい感謝を、家や記録という行動で返した人だったのかもしれませんね。
母、兄、姉、妻、子供は、それぞれ異なる時期の張本さんを支えました。生家は命と進路を守り、妻子はプロ生活と引退後の日常を支えたとみられます。公開情報の量は違っても、生涯のどの場面にも、家族の支えがあったことは変わりませんね。
張本智和と張本美和は親戚ではない
同じ「張本」姓のため、卓球の張本智和選手と張本美和選手が張本勲さんの子供や孫ではないかと誤解されることがあります。しかし、三人に親戚関係はありません。同じ苗字で、どちらも日本のスポーツ界を代表する存在という共通点があるだけなんですね。
張本智和選手と張本美和選手は実の兄妹で、父は張本宇さん、母は張凌さん。両親はともに卓球経験者で、兄妹の競技生活を支えてきました。この家族構成は、野球の張本勲さんの系図とは別です。
「張本兄弟」という表現も、文脈によっては卓球の智和・美和兄妹を指します。張本勲さんの実兄は世烈さんであり、こちらとも混同しないようにしたいですね。卓球の張本家のプロフィールを見ると、両家が異なることがよくわかりますね。
卓球の兄妹は現役選手であり、家族情報も公式プロフィールの中で広く紹介されています。それに対し、張本勲さんの子供は一般人として生活し、職業や活動を公表していません。家族情報の公開度が正反対であることも、両家を混同しないための大切なポイントですね。
| 人物 | 競技 | 家族関係 |
|---|---|---|
| 張本勲さん | プロ野球 | 兄は世烈さん、姉は点子さんと小林愛子さん |
| 張本智和選手 | 卓球 | 父は張本宇さん、母は張凌さん、妹は張本美和選手 |
| 張本美和選手 | 卓球 | 父は張本宇さん、母は張凌さん、兄は張本智和選手 |
| 両家の関係 | 異なる競技 | 血縁の公表事実はなく親戚ではない |
同姓のスポーツ選手が活躍すると、世代差から孫と結びつけたくなる気持ちもわかります。けれど、家系は年齢や姓が一致するだけでは証明できません。両家それぞれの公開プロフィールを比べれば、野球の張本家と卓球の張本家が別であることは、すぐにわかりますよ。
まとめ
張本勲さんの家族を振り返ると、大打者の足元にはいつも家族の支えがあったことがわかりますよ。
- 出生時は父母と4人きょうだいの6人家族だった
- 父と長姉を失い、母が生き残った子供3人を育てた
- 兄・世烈さんは父親代わりとなり学費を支えた
- プロ入り後に結婚し子供が2人いるが妻子の詳細は非公表
- 2026年9月9日に86歳で亡くなったと報じられた
張本さんの力強い打球の奥には、母の働く背中と兄の仕送り、姉と共有した記憶、妻のさりげない気遣いがありました。記録だけを見ると超人のようですが、家族への感謝と不器用な愛情を知ると、一人の息子・兄弟・夫・父としての顔も浮かび上がってきますよね。
3085本の安打の土台にあったのは、家族がつないだ大切な日々のバトン。そう思うと、あの力強いスイングも少し違って見えてきますね。
よくある質問
Q1.張本勲さんは何人家族で育ちましたか?
A.出生時は父母と4人きょうだいの6人家族です。父と長姉の死後は、母・兄・姉・本人の4人で支え合いました。
Q2.張本勲さんの妻はどんな人ですか?
A.一般人で、氏名や職業は非公表です。通算3000安打の日に母を球場へ招いた逸話が著書に綴られています。
Q3.張本勲さんの子供は何人ですか?
A.子供は2人です。本人は「下の娘」に言及しましたが、二人の氏名や年齢、職業、顔写真は公開されていません。
Q4.張本勲さんに孫はいますか?
A.孫の有無や人数は公表されていません。卓球の張本智和選手と張本美和選手は孫ではなく、親戚関係もありません。
Q5.張本勲さんの死因は病気ですか?
A.2026年9月10日朝の初報では、死因や具体的な病名は公表されていません。東京都内の病院で前日9日に亡くなったことのみが報じられています。

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